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連載記事
北九州 あの日あの頃
タイトル わがふるさとの街
エピソード3
投稿者 原田勝也さん(84歳)
私の生れは小倉北区鋳物師町88番地である。昭和12年3月生まれで昭和40年まで28年間住み暮らしたことになります。私の家はお地蔵さんの横です。
その中間期、激動の終戦は小学3年生でした。西小倉校区も市街地のあちこちが疎開で空地にされ、そこにわずかな畑を作った時代でした。
小学校4年〜5年生頃、よく遊びました。遊ぶ設備・道具・整備された広場なんて全くない時代でした。姉に縫ってもらった布製のグローブで家の前が6メートルの高さの刑務所の白壁がキャッチボールの相手。そして終戦後の東港町は鹿児島本線より北側は塩浜までずーっと空地で格好の遊び場でした。魚獲りや水泳そして草野球など。途中で米軍が軽飛行機を飛ばしてました。
「ヘイボーイ」で飛行機の回転(尾翼を抱えて廻す)を手伝ったりしたものです。その頃、祇園社跡の空地は造兵廠からの残骸部品置場となっていたし、山積みの物は浮浪者の溜り場でもあったようです。
昭和25年、戦後初めて鋳物師の「ミコシ」と「ダシ」が祇園祭に参加しました。その時、八坂神社に笛を習いに行きました。懐かしいなー。
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