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連載記事
北九州 あの日あの頃
タイトル 卒業証書無き卒業生
エピソード4
投稿者 松原孝さん (88歳)
空襲の煙にむせび、苦しさのために泣きさけぶ妹二人を防空壕からやっと連れ出したときの異様な光景を一生忘れないだろう。
硝煙にけむる一面の焼野原、すぐ目の前に尾倉国民学校の校舎がたたずんでいるではないか。びっくりしたその時の心の動きを忘れることはできない。今まで尾倉校を直接目にすることがなかったのに、家屋が焼け落ちて当時数少ない鉄筋コンクリート四階建ての校舎がまるでのこのこ歩いてきたかのように目の前にあったのだ。昭和二十年八月八日、正午少し前だった。
新学期、始業式に出校する。廃墟と化した校舎の運動場が黒い土で覆われていた。運動場に集った生徒が十数人、先生が三人。尾倉校が廃校になることを知らされた。そしてこの運動場で、多くの死体が油をかけて焼かれた。多数の級友が死亡したことも先生から聞いた。
槻田小学校へ転校の日、新しい級友の前で先生に紹介されたときの恥ずかしかったこと。それまで軍歌ばかり歌っていた少年の耳に「りんごの歌」や「箱根八里」が聞こえた。半分がいも畑になった狭い運動場で催された運動会。寒さに震えながらの補修授業。ひもじさとの戦い。少年は逞しく育っていった。今ここに胸の痛みを感じながら思い出を綴る米寿を前にした少年は尾倉校卒業証書なき卒業生である。
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